東日本大震災総括(その5)

もちろん電話は不通で携帯電話が通信手段だったが充電する電源も貴重でありソーラー充電器が重宝した。ただ充電コードは自宅にあったため流出した。震災後、その入手が大変だった。

 

食事についても大変、困難であった。とりあえず物資を待つしかなかった。震災当日の夜は被災を免れた地区からの握り飯が届いたが、その後は避難所で調理チームが作られ、そこで提供された食事を摂った。

 

また物資で届く賞味期限ギリギリの菓子パンを頂いた。数回、米軍提供のサンドイッチが届いたが、それは大きく大変豪華なものだった。幸いなことにプロパンガスが使えたので調理は可能であった。

 

ただ水道水が福島原発の影響で飲料水や調理に利用できなかった。もっとも近所のスーパーは津波で流されており買い出しにも不自由した。

 

ペットボトルの水をガスコンロで沸かしてカップ麺を何回も食べたが、3か月を過ぎる頃にはカップ麺を嫌いになった。

 

避難所にいる間、入浴はできなかった。自衛隊が風呂を設営したが医者は入浴している時間はなかった。いつも窓越しに中学校体育館から臨時浴場を眺めていた。

 

もっとも被災数日後にレンタカーを手配し、片道1時間の登米市の友人宅で入浴させてもらった。3月末の土曜日、仙台の妹宅で入浴した時、自分の汗臭さに驚いた。

 

トイレに関しても大変不自由した。歌津中学校体育館と水洗トイレは水が容易に得られないため、すぐに満杯になった。外に設置された簡易トイレも臭いの点で使いにくかった。

 

電話はNTTにより学校裏に無料の衛星回線電話が数台設置されたが、いつも立て込んでいた。友人等の電話番号は携帯電話に記録されていたが、携帯電話の充電が切れそうな段階で10名ほど紙に書き写しておいて友や家族に深夜を待って衛星回線電話を利用した。

 

医者は避難所にいても悠長に電話の順番を待っていることはできない。当たり前のことだ。