東日本大震災総括(その3)

東日本大震災の際、多くの命が失われたが大方は溺死である。もちろん津波で流されて何かにつかまって海上に出たものの流木などが衝突したり、家の中にいて水圧により天井に頭を強く打ち付けて亡くなった方もいたかもしれないが、基本的に津波死であり怪我人などは極めて少なかった。そこが阪神淡路大震災との大きな違いであった。


私は、震災の当日から歌津中学校体育館で医療活動を行ったが当日夜には津波で濡れた低体温の患者が1名と大腿裂傷の患者を診れるかの問い合わせが1件あったのみだった。


驚いたことに、その夜は体育館でパニック発作1名、てんかん発作1名、過呼吸発作1名発生しただけであった。


歌津中学校体育館では津波被害による怪我人ではなく避難所の中の、津波被害を免れた人間の診療がメインになったのだ。


持病だったり、不安からくる種々の病状に対する治療がメインになった。当初は薬剤や薬品もなく患者を診察して話を聞くことで、患者に安心を与えるという医療なのであった。


実は震災翌朝、一旦仙台に行こうと考えたが避難所にいた皆の顔を見た時、私だけ逃げ出す訳にはいかぬと感じた。


だからその朝、歌津中学校体育館の正面舞台の前に立ち、ここに医者がいるからと手を挙げた。この空間に医者がいると判れば避難民は安心するはずと考えた。


そのような理由で翌日、翌々日と町から借りた軽自動車で歌津地区の避難所を何か所か巡回した。治療をするというより安心を提供する目的で巡回した。


避難所に行くと多くの方が喜んでくれた。もちろん何人かを診察し、何人かの話を聞いた。実際に治療ができなくても歌津地区に医者がいるということで安心を提供できた。


私は医者であることの使命だと感じ行動したにすぎない。多分、当時、南三陸町の公立志津川病院にいた菅野先生に限らず、医者ならそうしたはずだし、それをしなかった者は医者ではないと思う。